[GINGA 1]

鉱石ラジオキット[銀河1型]

6,000円(税抜き価格)
仕上がり寸法:H75XW190XD120mm
部品表
ケース/エナメル線/ツマミ(黒ベーク)/スパイダーコイル巻枠/鉱石ターミナル(赤2、黄1、緑1、青1)/ナット7個/ワッシャー(小)9枚/ワッシャー(大)4枚/バリコン/透明リング/ネジ(3×10/1個/バリコン用2個)/ドライバー/銅線 S字/鉱石検波器(本体+針)/説明書/クリスタルイヤフォン/シャフト/ベークカラー/ハンダ/サンドペーパー/ゲルマニウムダイオード

キットの組み立てには、ハンダゴテやペンチなどの工具が必要の場合があります。
バリコン以外は鉱石ラジオ発足当時の原形をとどめるとも言えるキットです。黒色紙製スパイダーコイルにさぐり式検波器を装置しています。このさぐり式の鉱石ラジオは、最も象徴的な形式です。
この銀河通信社製鉱石ラジオは東洋に於いては始めて作られたさぐり式の鉱石ラジオキットです。当社では数種のさぐり式鉱石ラジオキットを製作しておりますが、安定性と感度を期待できる組立キットの1つと言えるでしょう。みなさんも、この結晶式受信機によってあなたの透明な通信を受け取ってください。(説明書より抜粋)
BIB [オーディオクラフトマガジン(誠文堂新光社)]/[装苑]

[GINGA 2]

鉱石ラジオキット[銀河2型]

5,000円(税抜き価格)
仕上がり寸法:W11XD16XH9cm
部品表
ソレノイドコイル用紙筒 /エナメル線 /木の板 /バリコンセット(ポリバリコン+ツマミ)/鉱石検波器(本体+針)/クリスタルイヤフォン/鉱石ターミナル(黒2)/ハンダ/サンドペーパー /ゲルマニウムダイオード/画鋲 2個/銅線 S字/説明書/木工接着剤/鉱石ラジオ用ニス

尚、キットの組み立てには、ハンダゴテやペンチなどの工具が必要の場合があります。
バリコン以外は鉱石ラジオ発足当時の原形をとどめるとも言えるキットです。2型は紙筒ソレノイドコイルを使用し、さぐり式検波器を装置しています。このさぐり式の鉱石ラジオは、最も象徴的な形式ですが、今まで我国でキットとして発売されたことはありませんでした。当社でも初期に設計、デザインが仕上がった組立キットの1つです。 鉱石ラジオの構造が分かりやすく配置されており、子供から大人まで手作り感覚が楽しめるキットです。
BIB[スチームパンク(グラフィック社)]

[GINGA 3]

鉱石ラジオキット[銀河3型]

4,800円(税抜き価格)
仕上がり寸法:W10XD8XH5.5cm
部品表
ケース/エナメル線/ツマミ(黒ベーク)/スパイダーコイル巻枠/鉱石ターミナル(赤2、黄1、緑1、青1)/ナット 7個/ワッシャー(小)9枚/ワッシャー(大)4枚/バリコン/透明リング/ネジ(3×10/1個/バリコン用2個)/ドライバー/銅線 S字/鉱石検波器(本体+針)/説明書/クリスタルイヤフォン/シャフト/ベークカラー/ハンダ/サンドペーパー/ゲルマニウムダイオード

銀河3型はコイルにマグネットコア入りの小型なものを使用し、コンパクトなサイズの鉱石ラジオです。これもさぐり式検波器を装置しております。 仕上がり寸法が縦5.5cm,横10cm,奥行8cmという小型の鉱石受信機です。鉱石検波器自身もかわいいデザインで、組み立ても比較的簡単なキットです。尚、キットの組み立てには、ハンダゴテやペンチなどの工具が必要です。
BIB[コウブツアソビ(フジイキョウコ著)]

[SUISEI 1]

鉱石ラジオキット[彗星1型・改]

5,500円 (税抜き価格)
仕上がり寸法:H7XW20XD12cm
部品表
木製ケース/黒ベークライト製パネル/スパイダー枠/エナメル線/ツマミ/鉱石検波器(鉱石部分+タングステン針+真鍮板)/ポリバリコン/鉱石ターミナル(黒5) /ネジ(2)/ベークカラー/ナット(6)/ワッシャー(2)/タマゴラグ(2)/シャフト/クギ(10)/クリスタルイヤフォン/ハンダ/銅線(3)/紙製プレート/ゲルマニュームダイオード/黒テープ/サンドペーパー/鉱石ラジオ用ニス/木工接着剤/説明書

フロントパネルに昔の鉱石ラジオを思わせる黒ベークライトを使用。 0.3mmタングステン針をスプリング状に形成し、方鉛鉱(USAミズーリ産)さぐり式鉱石検波器を製作する組み立てキット。キットの組み立てには、ハンダゴテやペンチなどの工具が必要です。

[SUISEI 2]

鉱石ラジオキット[彗星2型]

4,000円(税抜き価格)
仕上がり寸法:H5XW20XD12cm
部品表
木製ケース/木製フロントパネル/スパイダー枠/エナメル線/ツマミ/鉱石検波器(鉱石部分+タングステン針)/ポリバリコン/鉱石ターミナル(黒5) /ネジ/カラー/ナット(2)/ワッシャー(7)/シャフト/クギ(10)/クリスタルイヤフォン/ハンダ/銅線(3)/紙製プレート/ゲルマニュームダイオード/サンドペーパー/説明書

ケース、パネル共に木製のため、色やニスなど自由に外観が工夫できる組み立てキットです。 鉱石検波器部分もユニークなデザインのため、楽しんで製作してみてください。キットの組み立てには、ハンダゴテやペンチなどの工具が必要です。

-Radio Parts-

アンテナキット[ロ式室内空中線]

5,000円(税抜き価格)

当社製鉱石ラジオキットのどのタイプにも使用可能であります。電源のいらない不思議な鉱石ラジオで放送を聞くためには、アンテナとアースの設置が不可欠です。しかしながらこの「ロ式室内空中線」によれば、鉱石検波器とヴァリコンの同調により、空中に漂う目に見えない電波が、耳もとで音となって鳴りはじめるのです。組立も比較的簡単で、内容部品の中には、アースとアンテナのための配線材も含まれており、仕上がり寸法は約高さ65cm、横60cm、奥行き18cmとなります。「鉱石ラジオキット銀河1型」でラジオを聞くための配線を行った例です。緑の線はアースへと繋がります。アンテナの向きは外側に向く方が感度が良いようで、アンテナを置く場所にもよるため黄色のアンテナ線は長めに用意してあります。

スパイダーコイルセット

1,000円(税抜き価格)
最大500マイクロヘンリー弱(約350マイクロヘンリー以上)
部品表
直径96mmスパイダー巻枠/エナメル線/ネジ(3X30)/ナット2個/ワッシャー2個/説明書

画像には完成見本も写っています。

エナメル線

0.5X5m(赤)/0.5X5m(緑)
各1,500円(税抜き価格)

鉱石検波器A(方鉛鉱)

2,000円(税抜き価格)
1920年代の形式を踏襲しています。銀を含む特殊合金に方鉛鉱を固定し、タングステン針使用のさぐり式鉱石受信機用検波器です。

鉱石検波器B(黄鉄鉱)

2,000円(税抜き価格)

1920年代の形式を踏襲しています。銀を含む特殊合金に黄鉄鉱を固定し、スプリング型タングステン針使用のさぐり式鉱石受信機用検波器です。

方鉛鉱セット

500円(税抜き価格)
鉱石受信機用方鉛鉱2ケ/ゲルマニュームダイオード

黄鉄鉱

500円(税抜き価格)
スペイン産鉱石受信機用パイライト1ケ

ゲルマラジオセット

1,500円(税抜き価格)

シャフト付きポリバリコン/ゲルマニュームダイオード /クリスタイヤフォン/エナメル線/説明書
エナメル線には赤と緑があります。ご希望があれば注文時にお知らせください。

このセットを使用してさまざまなゲルマラジオが製作できます。写真は1例です。コイルを巻くトイレットペーパーの芯、木の板、ツマミ、ミノムシクリップは別に用意しました。後はアンテナとアースに接続すれば、放送を聞く事ができます。

コラム

[ぼくらの鉱石ラジオ]小林健二

1997年筑摩書房より出版された本より抜粋しております。

はじめに

鉱石ラジオーーこの言葉を聞いたとき、現代に生きる人たちはどんなラジオを思い描くのでしょう。一種の感慨をともなってその姿を思い出せる方もいるかもしれませんが、おそらく少数派でしょう。この本を書いているぼく でさえ、10年ほど前までは実体を知らずに、水品や蛍石のようなもので出来ている奇妙なラジオを想像していたのです。そしてそんなイメージに刺激されてか、鉱石ラジオに対するぼくの好奇心はある時期から急にふくらんでい きました。
鉱石ラジオは、回路の一部に鉱物の結晶を用いた受信機です。英語ではcrystal set:結晶受信機と呼ばれ、どの国の言葉でもどことなく不思議な響きがあるようです。このラジオは20世紀初頭の流転する時代に突如現われ、 日常生活に定着するよりも早く、幻であったかのようにいつのまにか忘れられていきました。鉱石ラジオにはさまざまなスタイルがあって、設計によってどのようにも外形や特性を変化させることができ、テーブルの上へ置きされないような巨 大なものから、ペンのなかに差し込むことができるものまでありました。鉱石ラジオが興味深いのは、この決まりきったところのない能性にあるようにも思えます。
また鉱石ラジオは、原理的には電池などの電源を必要としないという不思議な特徴をもっています。空間に満ちている電波というエネルギーを感じとって作動するのです。かつては、大気や真空中、重力による高密度な世界に まで、非物質的で超高透明なエーテルというものがあまねく広がっていて、光や電波はそれを震わせながら伝わっていくと考えられていました。実際、そのような理論にもとづいて初期の無線電信電話は発達していったのです。
この無線による通信が事業としてヨーロッパで興っておよそ80年。JOAK東京放送局(現。NHK第‐放送)力:本放送をはじめて約70年。日本国内で 本格的にラジオが普及しはじめてからまだ50~ 60年というところでしょう。そして今では、ラジオはメディアの第一線からすでに退きはじめてさえいます。
この間、地球上の一部の人間の歴史は、それまでの進度からは想像も出来ないくらいに激烈な変化をとげてきました。それは便利な生活をもたらした半面、いろいろな物を巻き込みながらときには弊害や犠牲さえも生んできたことをぼくたちは知っています。そのようにして生まれた、行き過ぎかもしれないほど多様化した社会において、それでも日々通信メディアは拡大しつつあるようです。しかし、それは“孤独な部屋の住人たち"をさらに色濃く置き去りにしてはいないでしょうか。通信を求める心が本来探しているのは 便利で合理的な手段よりも、何かもっと他の方向にあるような気がしてならないのはぼくだけではないと思います。
そこでぼくは、ラジオが子供の工作とそれほど遠くなかったころの方法と技術でもって、簡単なラジオを作ってみたいと思いました。なにかそこにこの迷路から脱出するヒントがあるような気がするからです。「ホビー」とか「趣味の工作」という言葉のなかに、ぼくは個人の自由な時間と自由な発想を感じるのです。
この本のなかには、ちょっと専門的と思える原理に関するページもあります。自分なりの工夫を入れて工作しようとするときに、その仕組みやはたらきについてイメージをもったほうがいろいろと役立つこともあると思うから です。しかし、これらの部分をとばしてそのまま工作に取りかかってもらっても、いっこうにかまわないと思います。工作の喜びはまず手を動かすことから始まり、望めば望んだ分だけ自分の方法で深めていけるところにもあるからです。
そんなわけで、この本を読むあなたがあなたなりの「不思議結晶受信機」を製作することで、「趣味の工作」の楽しさを感じてもらえればと思っています。
子供のころに読んだ科学の雑誌に、近い将来テレパシーは電磁波の理論で理解されるといった記事がありました。コイルを巻いたりして工作にふけっていると、そんなことを時々考えます。通信をしようとする人間の心のはたらきが、この工作物を手続きとして交通しているのです。それほど遠くない昔、日に見えない誰かに向かって送信や受信をしていた人々。その通信は思いを託した手紙のようなものだったにちがいありません。手探りでコイルを巻いたりしていた少年たち。その手作りのたよりない受信機の向かいには、おそるおそるダイヤルを回しながらどこからともなく語りかけてくるエネルギーに向かって、キラキラと輝いている瞳がいつもあったような……。そんな風景をふとぼくは思いうかべるのです。

ぼくと鉱石ラジオ

ぼくが子どもだったころ、すでに鉱石ラジオは日常のなかからは消え 失せていました。そして今に至ってはそのオリジナルにふれるのは至難 のことです。そんなぼくがこの鉱石ラジオにどのように巡り合ったのか、 そしてどうしてこの本を書くに至ったのか、少しお話ししてみたいと思 います。
1,
この古めかしい写真は昔父が共同でやっていた店の写真です。ぼくが 生まれたのはこの写真の撮られた昭和初期から30年近く後のことです が。屋号が光ったりしているところなんかきっと当時はハイカラだった のでしょうが、レコード盤の看板 といい、なんとなくレトロスペタ トな感じがします。おそらくこの ころ、世間では鉱石ラジオが普及 している最中だったのでしょう。 ぼくが物心ついたとき、家は新橋 に移っていて、戦後のドサクサの ころからの「やれる事はなんでも やっていこう」という感じで、い ろいろな仕事をやっていたようで す。 小学校2、3年のころ、家の職 業について作文を書くことになっ たとき、ぼくは呆然としました。 「ウチはいったい何屋さんだろ う?」時間内で書けない人は宿題 になって、しかたなく家に持ち帰りました。何かヤバイ仕事をやってい たわけではないけれど、すでに例のレコードの看板もなくなっていて、 「職業?」とあらたまって聞かれた時、正直よくわからなかったのです。 家に帰ってその辺にいる人たちに「ウチは何屋さん?」と聞くと、「そ れはケンボー冷蔵庫屋だ」とか「テレビ屋」「ラジオ屋」「クーラー屋」 「いやいや最近は新型イオン発生機屋だ」とか言って笑っていて相手に してくれません。あげくのはては「今はアイスクリーム屋だよ」と大笑 いという具合。 確かに家にはアイスクリーム製造機があって、それで作るソフトクリ ームは最高でスゴクおいしい。ぼくはとっても気に入っていて、とっく に修理は終わっていてしびれを切らした得意先に納品となる日には、粉 のスキムミルクのような原料をかくして必死に抵抗しました。でも、ス ペシャルアイスクリーム製造機はすんなリトラックで運ばれていき、泣 きのナミダでありました。話がそれてしまったけど、「ウチは何屋さ ん?」と当時はまだ父だとは知らなかった(変な話ですが)その社長と 呼ばれる人に聞いてみると、「ウチはデンキ屋だ」といったので他のも のよりましな気がしたのです。 当時ウチは特別貧しいわけではなかったのですが、ちょっと変わって いました。それまではみんな銭湯に行っていたので内風呂はなかったけ れど、ある日、父か誰かの日曜大工によって急に空間に誕生した即席の フロ場は、昼間でもローソクを灯して入らなければならなかったし、ぼ くの勉強机は母のつけっぱなしアイロンによってジオラマ化して、家で 勉強をしなくていいことになったりしていたのです。ましてどういうわ けか、時々車庫の中の大きなトラックの荷台の上にちゃぶ台を置いて、 みんなで宴会をしていたり、そんな傍らでいっしょにごはんを食べてい たぼくの思い出は、たのしいものやら悲しいものやら……。 いつもいろいろな人が出入りしていて、やがでどの人が父かわかった 後も、本当はウチは何屋だかよくわからなくて、彼はなんと最期には 刀鍛冶になっていました。しかしながら、兄がついでいる今でも「蓄晃 堂」という屋号は変わっていなくて、「蓄晃堂」の「蓄」は最初レコー ドを売りながら蓄音機も扱っていたころの名残りということなのだけど、 今はラジオともレコードとも関係はなくなっているのです。 確かに子供にとってあまりたくさんの奇人や変人の中で暮らすことは ハードな時があって、でも一見恐ろしい無政府主義的日常は、決して退 屈することがありませんでした。 現在、仕事やホビーで材料や資料を求める時に行く、いうなれば「ぼ くの遊び場」とも言うべき場所(ジャンク屋、古書店、専門材料店 等々)が、ぼくにとってどことなくなつかしい雰囲気を感じさせるのは こんな体験によるものなのでしょう。なぜならそんな店はたいていみん な変わった人が店をやったり集まったりしていて、そしてみんなイキイ キとしていて、まさにみんな得意満面、好きなことをやっているのです 「おカネの為じゃない、イキル為にやってんだよ」ってな具合です。 ト ルストイだったか、「幸せな人はどこか似ている。不幸な人はそれぞれ に不幸だ。」という言葉を置き換えて言うなら、「まじめな人はどこかみ な似ている。変人はそれぞれに変わっている……。」この世に二人とい ない人々の、二つとないエネルギーがその人の魅力につながっているん でしょう。

2,
ぼくの兄は昭和19年の生まれで、戦後彼が小学校で教材で作ったの は鉱石ラジオのキットでした。今考えるとぼくにとって貴重な証人の一 人なのです。「鉱石ラジオ? そ―いえば、子供の時に作ったことがあ るよ」とか「へえ―、なつかしいな」と言う人とときどき出くわすこと があるけど、たいていグルマラジオ(グルマニウムラジオ)と思ってい る場合が多いようです。
このぼくもその「グルマラジオ」については、工作体験者です。今で も、小学校の一部ではおそらく教育教材に取り入れているかもしれませ ん。ぼく個人の思い出といえば、ため息の出るようななつかしさという よりは、小学3、4年のころの、夏の暑い、退屈な理科のクラスを思い 出します。「工作の本が本当になくなったねえ、昔はいろいろあって、 本当にわくわくしたもんだった」と、時あらばおじさんの昔話よろしく 会う人ごとに言うぼくですが、それは正直言ってあまり楽しい思い出で はありません。コイル巻きのように面倒くさいものはとことん嫌いだっ たし、退屈でした。しかし小学校も5、6年になると、例の何屋かわか らない家業も、一時期専業のラジオ修理屋になっていて、家じゅうがラ ジオだらけでうんざりしていました。今にして思えば、なによりぼくに 興味をもたせなかったのは、ラジオは鳴って当然、鳴らなきゃ修理に出 せばいい、そんな気持ちが強かったためでしょう。本来、工作好きで通 っていたぼくですが、クラスで作ったばくのラジオは、数もかぞえずメ チャメチャにまかれたコイルが適当にハンダづけされて、とりあえずカ ッコだけ完成していたのです。
「どうです、聞こえましたか?」先生の問いに、正直者の聞こえなか ったグループを尻目に、ラジオ屋ケンちゃんは堂々と嘘をついて、聞こ えた組に手を上げました。きっと「ウチはホントーはデンキ屋だ」とい う変なプライドが手助けをしていたのでしょう。
しかしながら、あの少数の聞こえた組のやつらの、なんで幸福そうな 顔。目なんかつぶって聞いているのです。聞こえているはずのぼくは 「ねえ、聞かせて」と言い寄ることもできずに、つまらぬ嘘をついたこ とを悔やんでいました。ああ、まさに今、「鉱石ラジオ」のとりこにな っているのは、このときの報いなのかもしれない……。
中学ではアマチュア無線部に籍を置きました。スポーッ部と文化部の 両方に入らなければならない規則があったので、好きなサッカーを全カ でやりたいと思ったぼくは、出席をとらないアマ部を選んだのです。ま たもや嘘つきの悪知恵でした。形だけの集合のときにかいま見るアマチ ェア無線部はぼくにとって異境でありました。みんな真顔で難しい計算 なんかをしているのです。「そろそろ抜けていい?」と隣のやつに聞こ うとすると、逆に「小林くん。制服のホック、はずれてますよ!」と注 意を受けるという感じで……。だからやはりここでもプラモデルなどの 工作好きであったにもかかわらず、電子工作をまたもやソデにしてしま ったのです。
ぼくにとって、電子工作につながる道は意外なところから開けました。 10代のころから高じてきた音楽の趣味から、多重録音をしていろいろ曲 を作っていたのですが、そんな時にいつもエフェクター(音質などをい ろいろと変える機械)がほしくて、でもお金がないので、カタログを見 てはあこがれる純情な毎日でありました。20代の初めのそんなある日、 ギターやキーボードの雑誌でエフェクターの制作記事を見かけ、ビンボ ー人の執念とは恐ろしいもの、前後の見境もなく秋葉原に直行し、マッ ド・エクスペリメントの始まりとあいなったわけです。
当初の製作物のうち、いちおう音の出るものもあったとはいえ、一部 は音のかわりに煙を出し、コンデンサーが爆竹のかわりになったりもし ました。そしてその他はほとんど、なにより恐ろしい沈黙を守っていた のです。秋葉原へのお百度参りは回を重ね、みんなから定期が必要とま で言われながらも、機械の作製は遅々として進まず、いつのまにか「電 気いじりは日常Jというアリ地獄ならぬ電気地獄にひきずりこまれてし まいました。友人を巻き込み、私財をなげうってのこの壮大な試行錯誤 の日々は、またたく間に生活をおびやかしていきました。
そんな時、たまたま友人といっしょにDNR(ダイナミックノイズリ ダクション)を作っていると、ノイズを取るどころかほとんどハム(雑 音の一種)発生器となった基盤の上で、ぼくらのシグナルトレイサー (回路の信号をチェックする機械)はなんと、ふいに飛び込んできたラ ジオ放送をキャッチしていました。
しかも、装置の電源を切った後でさえ、その放送はとぎれることがな く、音楽や会話を聞かせつづけたのです。一人になったアトリエで、ぼ くはその省エネルギー的遊びをつづけました。こんなにラジオをまじめ に聞いたことがはたしてあったでしょうか。イヤホーンから聞こえてく る小さな声の放送に、はじめてセンチメンタルで美しい、そして空が急 に広くなりそよ風の吹いてくるような、あの電波少年たちの想いを受け 取ったのだという確信をぼくは抱きはじめたのです。
ここではじめて甘いため息の電波たちと人並に交信を持ったわけです が、やはリラジオ放送はラジオで聞きたいと思い立ち、本来高周波がお 得意の友人に誘われて、思い出のグルマラジオ科学教材社版をいっしょ に購入したのです。忘れもしない、これはかつてラジオ屋ケンちゃんを 嘘つきケンちゃんに変えた、アレではないか。「小学校の工作って懐か しいよね」と言いながら、「もし鳴らなかったら……」と一抹の不安が 頭をよぎります。製作がはじまると友人のほうはとっとと作ってしまう のに、なにかの因縁か、コイルの巻き数を2度間違え、「巻き数なんか 適当、適当」という友人の声に3度も間違え、心の奥深くにあったトラ ウマをぼくはかいま見たのです。
仕事の電話が入って時間切れとなり、ラジオは一人になったアトリエ でその夜完成しました。しかし恐ろしくも不安の予感は当たり、ツマミ を回そうがハンダゴテでつつこうが、ウンともスンとも応答がなく、夜 はしんじん更けてゆく。明けて朝からふたたびトライ。配線図はあまり に簡単で、見直すところもない有り様。あの小学校の教室に、まさに一人残されたの でした。
後日、このことはアンテナをつけていなかったので聞こえなくて当たり前と気がつ くのですが、そのころぼくの心の中にはそのいまいましい「グルマラジオ」ではない、 「鉱石ラジオ」への思いが日に日につのっていきました。
そのきっかけとなったのは、神保町にラジオの本を探しに行ったおり手に入れた 「A LADYBIRD SCIENCE SERIES」の「ラジオ」という本にでていた、 1枚の不 思議な絵でした。それは19世紀のロンドンの街中で、シルクハットの 紳士が人目を引くかっこうで、ウォークマンみたいなものを聞いている というものです。キャプションには「1879年にエドワード・ヒューズと いう人が、自分で作ったレシーバーを使って、マックスウェルが話して いた電波というものをロンドンの中心部で耳にしました……」とありま す。「1879年ってヘルツの実験(1888年)より前じゃない?」「彼はい ったい何を聞いているのだろう?」「いったいどんな受信機で?」実際 にはこんなに細かく前後の関係はわからなかったけど、電気の本は少し 読んでいたので「変、ヘン」と思いながら妙に引き付けられていったの です。今にして思えば、彼は雷などが出す「空電」という一種の天然電 波を聞いていたのかもしれないけれど、本当だったらそれにしてもすご いことだと思います。

3,
1986年の春、水品を頭にのっけたヘンテコなラジオが「鉱石ラジオ」 として店先に並ぶのを明け方の夢とウツツの半分状態で見てからという もの、それを何とか形にしてみたくて秋の個展にむけて考えにふけって いました(もちろん、このころぼくはまだ「鉱石ラジオ」の実体をつかん ではいませんでした)。ところが夏の暑さに負けて実際に製作にかかっ たのは初日の数日前、前日に徹夜でやっと完成するという有り様でした。
しかしながらそこに詰め込んだ思いは大き く、自分ながらに凝ったものとなりました。 ラジオの頭にのった水品は七色に光り、音楽 や人の声が入るとその音量の大小で光が明減 するというもので、仲間内では評判になって 欲しいという友人も結構いたのです。自分の 作品にはあまり執着をもたないぼくですが、 一つくらい自分のそばに持っていようと、今 でもこれは手元に置いであります。
やがでこれは別のギャラリーにも展示され、 フランス文学のT・S氏の目にとまることに なりました。そしてその翌年にまさかと思う 間に亡くなった彼に捧げるオブジェとして、87年秋、ぼくはふたたび 「サイラジオ」と名づけたラジオを製作したのです。音は単なるノイズ を付加した前作とは違い、まるで昔の球(真空管)のような音に変え、 さらにその下部には小さな部屋を作って光る環状列石を配置してみまし た。それは一種たましいの安らぎの場所をイメージしたのであって、ぼ くの作品を見て「これは星だねJと言ってくれた彼が、本当に彗星のよ うに逝ってしまったことへの、ぼくなりのたむけのしるしでした。もう 少し話ができたら…… と思っていたばくは、そのかなわぬ想いを込めて タイトルを「悲しきラヂヲ」とつけたのです。
その後、ぼくはまるで事故のように急激な呼吸器の発作で一時は心肺 停止するまでに至り、退院後も体調を崩すことが多くなりました。そん なわけで、ラジオ製作はぼくの大事な楽しい工作の趣味となって、仕事 としては退いたのです。
1993年、ぼくはまたもラジオの製作をすることになりました。それは あの「サイラジオ」のリメイク版を作ってほしいという声に答えるため のものでした。いくつかのタイプのラジオを製作しましたが、それらは とても複雑で、製作上ぼくをいろいろと悩ませ、そして疲れさせました 展覧会の会場で昔なじみの女性編集者とラジオの話をしていた時(彼 女はあの「悲しきラヂヲ」のときの編集者でした)、ぼくは少々疲れて いたのですが、「今度は本当の鉱石ラジオを作るんだよ。あくまで楽し みでね」とプランを話しました。「ガラスなどに洋銀線を巻いたコイル、 雲母(マイカ)に錫をはった2枚の板、そして水晶などについた黄鉄鉱、 これにイヤフォンでラジオになるんだよ。作り方も簡単だしね」「ほん とにそれでラジオになるの?」「まあ、本でも書けば小学生でも作れる よ」そんなことを言ったりしていました。すると横の方から一人の女性 が、「小林さん、そんな本、書いてみませんか」と現れたのです。それ が筑摩書房のIさんでありました。
そんなこんなで、94年の夏でもないのにやたらに暑い梅雨の間に、彼 女に見せるためについにぼくは鉱石ラジオを完成させたのでした。アン テナを忘れず、レシーバーを耳に当てると、確かに誰かがささやいてい る……。そしてマイカのコンデンサーを動かすとJOAK, NHK第一放 送が耳に飛び込んできました。
「やっと鳴った……」ぼくは一人で、小学校のあのラジオの日から30 年が経ったのを思い出していたのです。

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